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ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ(2012.9.8昼) [ミュージカル]

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9/8(土)13時、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」を観てきました。

作:ジョン・キャメロン・ミッチェル 作詞・作曲:スティーヴン・トラスク 上演台本・演出:大根仁 音楽監督:岩崎太整 訳詞:スガシカオ Cast:森山未來(ヘドウィグ)・後藤まりこ(イツァーク) Band:岩崎太整(key)/JUON(gt)/フルタナオキ(b)/MAKO-T(pf)/阿部徹 a.k.a. SANTA(ds)/木島"MAX"靖夫(gt)

先に観た方から聞いた話から、私が以前観た映画版や山本耕史主演版とかなり変わっているのではと覚悟して観に行きましたが、確かに場面設定が日本になっていたり、色々変わっているところもあるのですが、根本的にはそう変わっていないのかなと感じました。

森山未來さんはその高い身体能力を生かして踊り、動き回り、卑猥な言葉を連発しながらヘドウィグになりきっていて、そしてなんといっても歌がすごくうまくて、ライブ感満点でエキサイティングなショーでした。

以降、ネタバレあり。



森山ヘドウィグはしゃべりも面白くて、ちょっとしたギャグやエロネタなど笑える部分もたくさんありました。前の方がスタンディング席になっているので、そこにいる人の盛り上がりがすごくて、しまいにはスタンディング席にダイブしちゃったりも。私は1時間半立っているのはつらいので、着席できる席を選びましたが。バンドも迫力があってとてもよかったです。

色んな意味で気になった点もありました。

■原発の扱い方はセーフかアウトか
おそらく数十年後の日本ということでしょうが、原発事故のあと、立ち入り禁止区域に壁ができ、壁の中にはアウトローやテロリストなどが集まってきて無法地帯になってしまっていて、ヘドウィグはそこで育ち、ヘドウィグが脱出後、壁の中のテロリストをやっつけるための爆撃されて壁は崩壊したという、なんともおどろおどろしい設定。(ちなみにオリジナルはベルリンの壁があった時代に旧東ドイツで生まれたという設定でした。)でも、本筋としてのヘドウィグの物語は大きくは変わっていないので、観ている分には、意外と違和感は少なかったです。

観る前から気になっていたのは、原発ネタで被災者への差別的な内容になっていないかどうかというところでした。開始前にステージ奥のスクリーンに原発事故に関する架空の新聞記事(それもスポーツ紙のようにどぎつい色合いの)が何パターンか表示されるのですが、そこに具体的な地名を出すのはどうなのかな。「○○村はヤリ放〜」(放の次の文字は他の記事に重なってみえない)とか(○で表記したところに本当は実際の被災地の地名が描いてある)。

さらに、原発事故のあとに生まれたイツァークについて、ヘドウィグが「あれ(とぼかしているが放射能をさしているのは明らか)の影響でででちんこもまんこもない」と語る場面があり、そこは私はいいと思えませんでした。

■イツァークの設定
そもそもイツァークをそういう設定にする必然性があったのか疑問です。もともとヘドウィグは自分の片割れ探しを通して、本来の自分の姿にたどりつくというのが大きなテーマで、ヘドウィグに関してはそういう流れになっているのですが、男性でも女性でもない身体で無邪気な子どものようなイツァークがあるべき自分の姿にたどり着けたのか、よくわからない終わり方になっていたので、じゃあなんでこういう設定なの?と思ってしまいました。

ヘドウィグを初めて観たという方数人から、「イツァークがどういう位置づけなのかよくわからなかった」という話を聞きましたが、確かによくわからない感じ。最後に白いドレスを着て出てくるのは何を意味しているのでしょう???もしかして死んじゃったのかな?と一瞬思ったけど、それでは筋が通らないし。

もともとイツァークはヘドウィグの夫で、ドラァグクイーンになりたくて、ウィッグをかぶりたいんだけどヘドウィグに禁止されているという設定で、最後にヘドウィグがすべてを脱ぎ捨てる時に自分のウィッグをイツァークに与えます。そしてイツァークはウィッグときれいなドレスを着て本来なりたかった姿になって終わるというものだったんですけどね。

非常に乱暴な言い方になりますが、イツァークが出てくると話がよくわからなくなるので、ヘドウィグだけでもよかったかもしれません。設定の問題だけではなく、後藤まりこさんは歌は迫力があるのですが、歌詞やセリフが聞き取りづらくて、今まで観たバージョンではヘドウィグだけが歌っていた曲もイツァークが一部歌うようになっていることが多かったのですが、その部分になると聞き取れないし、森山さんの意外に野太い歌声と後藤さんの子どものような声がマッチしてなくて、違和感を感じました。逆にそこが狙いなのかも知れないですけど。

■トミー・ノーシス
いいアイディアだなと思ったのはトミー・ノーシスの扱い方です。ヘドウィグがトミーについて語るときにはステージ後部のスクリーンにトミー(に扮した森山さん)の映像が表示され、トミーと向きあったヘドウィグがトミーの(映像の)手の動きに反応したりとかして、上手にひとり二役をしていました。

それと、新しいなと思ったのは、これまで観たヘドウィグは、最後にヘドウィグがウイッグを脱ぎ捨ててトミーになる(トミーと一体化する?)感じの終わり方なのですが、今回はそうではありませんでした。ヘドウィグがウィッグなどを脱ぎ捨てたあといったんヘドウィグは退場。そして今度はトミーとして再登場します。そして、トミーは自分にロックを教えてくれたヘドウィグを裏切ったことを詫びて、「Wicked Little Town(Reprise)」を歌います。この曲自体がヘドウィグに詫びる内容なんですが、その前にセリフとして詫びを入れることで、そこに立っているのがヘドウィグの中にいるトミーではなくトミー自身なのだと理解できます。そしてトミーが詫びることでヘドウィグと一体化していく終わり方と思っていいのでしょうか。とても斬新です。

ただこの演出には若干課題もあります。ヘドウィグが1曲前の「Exquisite Corpse」(”きれいな死体”というように訳されていたと思います。)を歌い終わったあと、山本版ではそこで一気に服を脱ぎ捨てて自分で額に十字を描き、そのまま一気にエンディングに突入していきますが、森山版では、ヘドウィグがいったん退場してしまうため、イツァークが間つなぎのためにローソクに(?)火をつけたりとか意味不明の行動をしている間、ちょっと間延びしてしまった感じがありました。この点、工夫が必要かも。

■教会
もうひとつ上手いなと思ったのは、オリジナルにはない教会を壁の中に設けたことです。オリジナルではアメリカの軍人という設定のルーサーが、ここでは教会の牧師(笑)。名前から、人種差別運動で有名なマーティン・ルーサー・キング牧師を連想し、なるほどーとつい笑ってしまいました。このルーサーは少年にエッチなことをさせるとんでもないヤツなわけですから。そしてトミーとの出会いも教会。確かにトミーはキリスト教オタクだし、教会で出会ってもおかしくないですからね。(ちなみに、オリジナルでは、ヘドウィグがルーサーに捨てられて生活に困り、ベビーシッターとして雇われた家の息子がトミーだったという設定。)

■27歳
ヘドウィグの話の中で、27歳で亡くなったロックスターが何人もいて、自分も27歳で死ぬと思った(?)みたいな話があって、実際には森山さんは28歳になってるっぽいのですが(wikipedia情報では)、最後の「Midnight Radio」でオリジナルでは女性ロックスターの名前を挙げている部分に、その27歳ネタで取り上げた男性ロックスターの名前を入れていましたね。ジミ・ヘンドリックスとか。ここはどう理解すればいいのかな。もともとは女性であることで低く見られがちな(?)女性アーティストに自分を重ねあわせたみたいなことだった気がするのですが、トミーとして歌っているとしたら男性アーティストの方がいいのかな。ここは自分でもどっちがいいかわからないです。


たまたま前に観たことがあったので、つい比べてしまいますが、なにもオリジナルに忠実でなくてはいけないとは思いません。山本版だって、オリジナルから変えているところも色々あるわけだし。新しい感覚の森山ヘドウィグを観に行けてよかったと思っています。


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