SSブログ

レキシズル「松平容保TERAKOYA」メモ(前編) #八重の桜 [大河ドラマ「八重の桜」]

Rekisizzle_Space_IMG_1419.jpg
父やその先祖が会津出身で、最近はNHK大河ドラマ「八重の桜」にはまっている私ですが、レキシズル「松平容保TERAKOYA」というイベントがあり、現在の会津松平家のご当主(=殿)もお話をされるというのを知り、「殿にお会いしたい!」という単純な動機で出掛けてきました。

6/1(土)の17時からレクチャーが始まりました。講師はレキシズルを主宰する渡部麗(わたなべ・りょう)さんと会津松平家14代ご当主で松平容保公直系の玄孫である松平保久(まつだいら・もりひさ)さんでした。場所はレキシズルスペース。渡部さんはお母様が会津出身とのことで、会津びいきなイベントとなりました。

私はメモ魔でこの日もA4サイズの紙に5枚半もメモしてきました。それをもとにお話の内容の概略をまとめてみたいと思います。歴史上の人物は原則敬称略とします。

松平容保TERAKOYA
 ~現代の殿さまと語る〜

0)畳と足袋
レキシズルスペースというのはビルの3階にあるのですが、畳敷きになっていて、参加の際に足袋の着用を推奨しているとの注意書きがありました。足袋を持っていない人は予約しておくと当日サイズにあったものをいくつか用意していてくださるとのことで、郷に入れば郷に従えで足袋に挑戦。到着次第、カラフルな足袋を選んで端っこの方で履かせてもらいました。


1)平伏して殿をお迎え
渡部氏(以降、W氏)が登場。着物姿でユーモアあふれる語り口はまるで落語家さん。W氏の提案で平伏して松平氏(以降、殿)をお迎えすることに。テンション上がる~。登場した殿も「おもてをあげよ」とおっしゃり、「今宵は無礼講でよい」と。武士ごっこ、なんか楽しい~。

2)会津松平家の系図
AiduM_keizu.jpg
*紹介された系図を若干補足しつつ手書きしたもの。

W氏が会津松平家の系図を説明。7代目までは直系。8代目から養子が続く。8代目は容保の実のおじ。9代目が容保。10代目は徳川慶喜の弟の喜徳。11代目は容保の末子保男(もりお)氏。その孫が現当主。ご子息(15代)は中学生とのこと。

保男氏の兄恒雄氏の子が一郎氏と秩父宮妃勢津子さま。一郎氏の子恒孝氏は徳川家の養子となり、現在の徳川宗家。W氏は「ある意味今会津が天下をとっていますよね」と。殿は「葵交会という集まりがあり、松平家や徳川家の方々が定期的に集まっている」と。会津松平家と徳川家は今も深いつながりがあるのですね。

3)殿への3つの質問
あらかじめ募集していた質問の中から、W氏が3つの質問を殿に。

Q 薩長をどう思いますか?
殿「武士の情けはどうしたんだと言いたい」

W氏:ドラマでは錦旗(錦の御旗)があがりましたが・・・。
殿:戦略的にはうまいがそりゃないだろう。会津は何度も恭順を示しているが、握りつぶされている。
W氏:会津が強すぎて徹底的にやらないとと思われたのでは?
殿:そうですね。

Q2 会津松平家の血をひいていると知ったのはいつ?帝王学などはあったのか。
殿:「特にない」。強いて言えば「父からの一言」。「今こうしていられるのは会津のおかげ。会津に足を向けられない」と。父は「皇室アルバム」などの番組を姿勢を正して見ていて、皇室への尊敬を持っていた。元旦は必らず家族で過ごす、2日は秩父宮家にご挨拶。5/3〜5は必ず全員で会津に墓参りに行くなど決まっていた。
お父上の行動から、自然に殿としての振る舞い方を身につけられたのですね。

Q3 歴史上の人物で会ってみたい人は?
殿:容保公と孝明天皇、会津藩御家老のみなさま。特に晩年の容保公と話してみたい。家老の西郷頼母も戊辰戦争の時は(活躍せずに)どうなのかと言われがちだが、そんなことはない。西郷家は藩祖保科家の頃からの家老で会津のことを一番考えている。会津には神保修理、山本覚馬など勉強している人も多かった。容保公が勉強に出した。
W氏が「徳川慶喜は(どう思われますか)?」たずねると殿は苦笑。やはり複雑な心境のご様子。殿のお父上のお姉様が慶喜のひ孫の方とご結婚されているそうです。

4)幕末は16年弱
1953-1869年の16年弱。ペリー来航から函館で土方歳三が亡くなるまで。当時の人にとってペリーは宇宙人が来たくらいの驚きで、大八車に荷物を積んで逃げた人もたくさんいたらしい。

5)幕末の整理の仕方
W氏が幕末をどう整理するかをレクチャー。
「尊王」という思想があるが、容保、慶喜、会津はもちろん、長州薩摩もみんな尊王。誰が天皇を見方につけるかの争いだった。

思想 1倒幕、2佐幕、3大政奉還
考え 1開国、2攘夷       *この組み合わせで考える

開国派は佐久間象山など少数派。倒幕開国派と倒幕攘夷派は仲が悪い。容保公は佐幕開国派。
殿:容保公は開国やむなしとの考え。
W氏:西郷隆盛は倒幕開国派。徳川慶喜はこの分類では大政奉還開国派だが自分が幕府なので佐幕というのもおかしいし、しいていえば尊王開国派。彼は唯一水戸藩出身の将軍。
殿:公武合体派でもある。容保公も公武合体派。容保公は公武合体とか言路洞開など(色んな勢力を?)受け入れすぎなところがある。

6)美濃高須家
容保公は会津出身ではない。美濃高須家からの養子。同家は優秀な養子を多数排出したエリート血脈。特に高須四兄弟が有名。

takasu4_400.jpg
*写真はWikipediaから引用。

左から桑名藩主定敬、容保、茂栄、慶勝(若い順ですね)。慶喜の父徳川斉昭の妹が慶勝の母なのでふたりはいとこ同士。(容保・慶勝・慶喜の若いときの写真を並べて似てますね、とも。)
殿:四兄弟の父は10男9女(うち成人したのは6男1女)。

W氏は「お兄さんの慶勝(尾張藩主)も切ない。」と。
尾張藩では跡継ぎがうまくいかず、下級武士からの熱狂的な支持により慶勝を跡継ぎとして養子に迎えることになったそうです。慶勝は超まじめな尊王派で、日米修好条約に抗議して安政の大獄で蟄居を命じられる。井伊直弼が暗殺され、2年後に許され藩父となる。
「八重の桜」で暴発した長州藩を討つ司令官がこの慶勝だった。皇室からも幕府からも信頼の厚い人だった。戊辰戦争の時には倒幕派にまわる。常に板挟み人生。優しく平和主義の人。困難から逃げないサムライ。
戦いに敗れた弟二人(容保と定敬)といとこ(慶喜)の助命嘆願をしたのもこの人。慶勝のおかげで命を救われた。
殿:新政府とのパイプがあり、かなり動いたよう。高須四兄弟の写真は明治10年代に兄弟が集まり食事をした時に撮られたもの。慶勝は明治16年に亡くなっている。四人の目線がそれぞれちがうのは象徴的。兄弟でありながら色んな家に養子に行ってそれぞれの歴史の中で生きたことのあらわれではないか。
W氏:倒幕派についたことで弟を助けることができた。名古屋名菓ういろうの名店「青柳」の屋号の命名者でもある。でも名古屋でプレゼンをしても慶勝を知っている人はほとんどいなかった。


このあと、「八重の桜」の撮影秘話や綾野剛さんの印象などお話は続きますが、長くなったので別ページとします。

コメント(0)  トラックバック(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。